↑ビートルズの事実上ラストライヴ。それもゲリラ・ライヴ。
金銭面、マネージャーの死、経営不安、個々の孤立など様々な要因が重なり
1970年4月に法廷で正式にビートルズは解散。
解散直前にスタンダード・ナンバーを集めたソロ作品センチメンタル・ジャーニーを発表していた
リンゴは解散後、ソロ・ミュージシャンとしての活動を始動する。
同年には2ndアルバムのカントリー・アルバム発表し、ボークー・オブ・ブルース、
明日への願いも発表ヒット・チャートを賑わした。
1973年発表のリンゴは全米1位にランクイン。
ビートルズ解散以降初めて、4人のメンバーが1枚のレコードの中で名を連ねた。
(各メンバーが楽曲提供と演奏で参加)
ジョージ・ハリスンとの共作曲「想い出のフォトグラフ」や「ユア・シックスティーン」は、
全米チャートでナンバーワンを記録1970年前半は精力的に活動しヒットチャートを震わした。
途中アルコール依存などに悩まされた彼も近年では治療を経て精力的に創作活動に臨み、
数枚のアルバムを発表している。
ビートルズの中でもっとも発に音楽活動を展開したジョージは
多くの評論家から「ビートルズを解散して最も得をした元ビートル」と評された。
本格的な初のソロ・アルバムとなった『オール・シングス・マスト・パス』は異例のLP3枚組
として発売されたにも関わらず全米/英のアルバムチャートで7週連続1位となる大ヒットを記録。
シングル「マイ・スウィート・ロード」も米英それぞれ4、5週連続No.1となるなど
書きためていた曲を一気に放出。
伝説のプロデューサー、フィル・スペクターの見事なプロデュースと相まってその完成度の高さ
から、今も画期的なロック・アルバムとして評価されている。
1977年以降、音楽以外の活動にも興味を示すようになり副業として始めた映画制作の仕事で
大きな成功を収める。
その後も様々なトップ・ミュージシャンとの共演や賞の受賞を得てきた彼だが、くしくも
2011年11月29日(日本時間11月30日早朝)、肺癌のため彼は滞在先のロサンゼルスで死去。
ビートルズの解散騒動の一週間後にポールはソロアルバムのマッカートニーを発表した。
その後発表されたアルバムのラムの収録曲「アンクル・アルバート〜ハルセイ提督」は
1972年度のグラミー賞で最優秀アレンジメント賞を獲得した。
ポールと妻リンダ・マッカートニー、元ムーディー・ブルースのデニー・レインの3人を中心に
構成されたロックバン、ウィングスを結成し活動。
1981年4月のデニー・レインの脱退表明によって自然消滅に近い形で終焉を迎える。
ソロ・アーティストとしての活動を9年ぶりに再開。
10年ぶりとなるソロ名義のアルバムのマッカートニーIIと先行シングル、カミング・アップで
成功を収めた。
1990年4月21日のブラジル、リオデジャネイロのマラカナン・スタジアム公演では
18万人以上の観客を集め、有料コンサートの観客動員数の世界最高記録を更新するなど
精力的に活動。
またポピュラー音楽以外のジャンルにも挑戦し初のクラシック作品リヴァプール・オラトリオ
を上演するなどして音楽の幅も広げていった。
近年でもオリジナルアルバム、ニューを発表するなど活動を続けている。
解散後ジョンはアルバム、ジョンの魂や、イマジンなどを発表しヒットを飛ばす。
その後活動の拠点をアメリカのニューヨークに移し多くの反体制活動家や
ミュージシャンと知り合い、政治的活動に積極参加した。
大麻所持で通常よりも重い10年間の禁固刑をうけた反体制活動家ジョン・シンクレアの
救済コンサートへの出演、アッティカ刑務所の入所者家族のための慈善コンサート
などが代表的。
チャック・ベリーや、スティーヴィー・ワンダーなど共演するなどして音楽活動も行う中
ジョンはヨーコとニューヨークで会見を開き、架空の国家「ヌートピア」の建国を宣言した。
数々のヒットを飛ばしゴシップなど共に世間を騒がせていたジョンだが、1980年12月8日
スタジオ作業を終えたレノンとヨーコの乗ったリムジンがアパートの前に到着した。
2人が車から降りた時、その場に待ち構えていたマーク・チャップマンが拳銃でジョンに発砲。
ルーズヴェルト病院で23時過ぎに死亡した。
当時ジョンが住んでいたダコタ・ハウスには今でも追悼の意を込め訪れる人が後を
絶たないという。