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routine records
・2002年4月設立

・ミックステープ「ROUTINE JAZZ」1~5,routineのアルバム等の
 制作、販売 を手掛ける。

・コンピレーションアルバム、再発アルバム等の制作販売等
 を手掛ける。 新レーベル routine records , routine jazz
  label , routine contemporary label  にプロデューサー、
 A&RにDJ 小林径氏を迎える。
routine history
 1990年初期の渋谷。渋谷にあったDJバー・インクスティックでサウンドプロディースをしていたDJ小林径とU.F.O.の矢部直とで行われていたイヴェント" THAT'S HEALIN' FEELIN "の後発のイヴェントとしてスタートした。


 当時のメンバーは小林径の他にミュージック・ライターでもある荏開津広と弁護士ジェームス・P・ヴァイナー(後にレコード屋を宇田川町で開く)、東京スカ・パラダイス・オーケストラの青木達之(後に事故で亡くなる)、テイ・トウワの弟である鄭秀和(現在は建築士としてインテンショナリーズという若手建築家ユニットを結成)というラインアップで、イヴェントの内容はヘビーローテーションの曲は1曲も無く、インストゥルメンタルの方が歌よりも多いという今日では考えられない程マニアックな内容だった。


 ある日は小林径がエレンマキルウェンの誰も知らないような曲をかけていた。荏開津広はラストポエッツのパーカッシヴなトラックをかけていた。ジェームス・P・ヴァイナーはデンマークのアーティストのブラジリアン・フュージョンをかけていた。青木達之はニューオリンズのワイルド・マグノリアスをかけていた。


 学生のバンドのようなワックワック・リズムバンドがアーチー・ベル・タイプの曲を演奏し出すと、渋谷公会堂のライブが終わってROUTINEに遊びに来ていたブランニュー・ヘヴィースの面々がその中に割って入って、皆でジャズ・ファンクのジャム・セッションが始まる。ROUTINEはいつもそんな感じだった。


 フリーソウルやプチカート・ファイブのイヴェントなど渋谷系のメッカだったDJバー・インクスティックでただひたすらダークでマニアックな感じだった。そんなROUTINEが1993年に同名アルバムをリリースした。


 アベレージ・ホワイト・バンドみたいなリフで始まって、ジェームスのナレーションで幕を開けるこの曲は誰もがかっこいいと思った。アルバムは評価され海外でも評判になった。ロンドンのKISS FMでジャイルスは、プレイし、ストレート・ノー・チェイサー誌でもチャート・インし記事でも取り上げられた。


 ドイツの99レーベルからオファーが来て海外でもアルバムがリリースされた。しかし1995年にイヴェントは『このクオリティーを保っていけない』という理由で終了し、それからしばらくしてDJバー・インクスティックもなくなってしまった。


 でも人々の間からROUTINEの名前が途切れる事は無かった。ROUTINEは伝説になった。
otairecord label pick up